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琉球との交流の歴史
袋中上人と琉球
檀王法林寺を開山した袋中(たいちゅう)上人は、天文21年(1552)磐城国(現在の福島県いわき市)に生まれ、14歳で「袋中良定」と称して出家し学徳豊かな僧と知られています。
武蔵増上寺などさまざまな地で修学に励み、磐城城内に菩提院を開き多くの著作を残されました。しかし、上人の学問探求はこれに止まらず、明(当時の中国)に渡って学僧に教えを請い、未渡の経典を持ち帰りたいとの願いをもっていました。
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袋中上人絵詞伝(袋中菴所蔵)
そして慶長8年(1603)、その意思を固めた上人は、兄の以八上人の反対を押し切って明への便船を求め、長崎平戸より出国されました。しかし、当時の混沌とした国際情勢は上人の入国を許さなかったため、やむなく琉球(現沖縄)に上陸し留まる事になったのです。
3年の琉球滞在のうち、上人は浄土念仏の教化布教に熱心に努められました。当時の琉球国王、尚寧王は上 人に深く帰依されて、桂林寺(現那覇市松下町)を建立しました。また、サツマイモを普及させ砂糖精製技術をもたらし琉球の恩人と呼ばれた儀間真常公も厚く 上人に帰依されました。
上人の布教活動は、それまでの難解な仏教に比べ、易行易修(ただ念ずることによって救われる)であったため親しみやすく、国王から一般民衆にいたるまで、多くの琉球の人々に影響を与えました。
上人の帰国後、尚寧王が30数点の琉球宝物を寄進されたことをみても、その信仰の深さがうかがえます。
袋中上人の伝えた仏教
沖縄に仏教が伝来したのは、文献上ではかなり古いものがあります。
英祖王の在位した咸淳年間(1265-1274)に禅鑑という僧侶が王の帰依を得て、浦添城の西に極楽寺を建立したことにはじまるとされていますが、実際に仏教が根付いたのは、明との通商が開かれた14世紀後半からです。
15世紀半ばには臨済宗の芥隠、真言宗の日秀が渡来し、布教に努めたため、王室、貴族の保護のもと仏教は広まっていきました。しかし、当時の琉球には土着信仰が根強く、教義の難解な仏教は一般民衆に浸透していたとは言いがたい状況でありました。
このような中、1603年に袋中上人が来島し、誰でも特別な修行なしにただ念仏をひたすらに唱えることによって救われる、という教えを説いたため、一般民衆に仏教が身近なものとして広がっていきました。
このことは沖縄に伝わる『琉球国由来記』にも「本国念仏者、万暦年間、尚寧王世代、袋中ト云僧渡来シテ仏経文句ヲ俗ニヤハラゲテ始メテ那覇ノ人民ニ伝フ、是念仏ノ始ナリ」と書かれています。
「俗に和らげて」とありますように、袋中上人の伝えた仏教は庶民的な宗教であったことがわかります。
上人の尽力によって浄土念仏の教えは庶民に浸透していきましたが、帰国後はよき指導者があらわれず、次第に形式化していきました。その中で、昭和初 期まで垣ノ花、具志、小禄の村には浄土宗の制度が残されていました。垣ノ花村は浄土の本家とされ、袋中上人伝来の鉦も2面伝えられていましたが、大戦の戦 火により失われたそうです。
その後は、小禄にのみ浄土が残り、この地には現在、浄土宗沖縄別院袋中寺が建立され、上人の威徳を伝えています。
袋中上人将来の琉球宝物
檀王法林寺には開山袋中上人にまつわる多くの御遺物が残されています。
中でも特筆すべきは上人が琉球王国より帰国したのちに尚寧王より贈られた、書棚、青貝掛板、クバ団扇、鼎形香炉、琉球椅子、西湖図など30余りの宝物であります。
これらには16世紀前後の秀逸な琉球工芸品が多く含まれ、当時の作風を伝える貴重な資料となっています。
祇園祭黒主山の龍紋前掛
祇園祭で巡行される山鉾の一つである、黒主山の懸装品には「赤地四爪龍文綴錦」が前掛としてかかっていました。
これは中国明の時代の官服の裁断したものを組み合わせて仕立てたものです。
文化14年(1817)に十五世良暢上人(りょうちょう)が、袋中上人が琉球王尚寧より恩賜されたものである「赤地龍文夷嶋(えぞ)綴錦」一掛を黒主山に寄進されたことが、現存する古文書からうかがえます。
現在、「四爪龍綴錦」は痛みがひどくなったため、1990年より古錦を復元した「五爪龍文錦」に前掛が変わりました。
この錦が納められていた桐箱の蓋の裏側に、袋中上人の作として詩文の墨書が残され、当山とのかかわりがあるとされていますが、詳細は不明です。
琉球芸能との関わり
袋中上人の伝えた仏教は、身分をこえ多くの人々から信仰を集め、琉球の文化にも大きな影響を与えました。
袋中上人直系の浄土念仏を真似たものにニンブチャー(念仏者)という集団があります。彼らは葬儀の際、雇われて念仏鉦叩きをしているもので、浄土宗の寺院のみならず、宗派をこえて活動していました。
このニンブチャーの起源についてはまだ不明のことが多いようですが、「袋中以降の浄土教は僧侶より俗人の手に移り、後に下層階級の人たちが葬家に雇われて念仏するようになった」と考えられています。
彼らの残す念仏歌の歌詞にも、袋中上人の影響が強くみられるようです。
また沖縄の伝統芸能として今に伝わるエイサーは、精霊送りの時に行われる盆踊りがもとになっているとされています。
その起源は袋中上人が浄土念仏とともに伝えた念仏踊りにあると考えられ、沖縄では袋中上人をエイサーの祖と考えている人も多くみられます。このエイサーの歌詞にも袋中上人の教えが反映されているとされています。
現在、檀王法林寺に併設している「だん王保育園」では、沖縄から講師を招き「だん王エイサー隊」を結成し、時に沖縄から講師を招いて、エイサー踊りの上達にはげんでいます。
沖縄だん王別院袋中寺の建立
袋中上人が在琉時代に建立した桂林寺が絶えて長い年月がたっていました。
そこで二十五世良哉(りょうさい)上人が昭和12年(1937)袋中上人の三百年忌を記念して、琉球念仏発祥地である沖縄那覇市の垣ノ花に「だん王別院袋中寺」を建立され、沖縄仏教界の協力を得て浄土念仏復興の伝道をはじめられました。
この袋中寺は沖縄戦の戦火の中に焼失しましたが、二十六世良文(りょうぶん)上人が設立委員長となって「浄土宗沖縄別院袋中寺」として昭和47年(1972)復興され現在にいたっています。
庫裏屋根のシーサー
当山ではこれまでの沖縄との関わってきた歴史を鑑みて、平成18年の大屋根大修復の記念に、シーサーを庫裏玄関の小屋根の上に奉りました。
沖縄の守り神「シーサー」が新しく邪気祓いの仲間入りをして、参詣の皆様をお迎えしております。
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