歴史

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檀王法林寺の歴史

檀王法林寺の前身悟真寺

画像 望西楼了恵上人図
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檀王法林寺は正式名称を「朝陽山 栴檀王院 無上法林寺」(ちょうようざん せんだんのういん むじょうほうりんじ)といい、その歴史は望西楼了恵(ぼうせいろうりょうえ)上人(1243-1322)の悟真寺(ごしんじ)創建にはじまります。

了恵上人は浄土宗三条派の派祖となり、亀山天皇の帰依を受けて「朝陽山」の山号を賜り、文永9年(1272)に悟真寺を三条の地に建立しました。この地で宗祖法然上人の浄土の真義を伝えるなど、専修念仏の布教につとめられ、法然上人の教義をまとめた「黒谷上人語灯録」を著しました。

上人は元徳2年(1330)88歳で入寂されましたが、このとき後醍醐天皇より「広済和尚」の号を与えられました。

その後、悟真寺は応仁の乱をはじめ、度重なる天災人災の被害を受け、永禄年間(1558‐69)に焼失したと伝えられています。

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開山袋中良定上人

画像 袋中上人像
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この悟真寺の縁地に新しく檀王法林寺を築いたのが袋中(たいちゅう)上人です。

上人は天文21年(1552)磐城国(現在の福島県いわき市)にお生まれになり、14歳で出家し「袋中良定」と称するようになりました。上人はさまざまな地で修学に励み、若き頃より学僧と知られ浄土宗の教えをことごとく相伝されました。

慶長7年(1602)、51歳の時に明(当時の中国)へ渡ろうと決意しましたがかなわず、翌8年から3年間琉球国に留まることになりました。

帰国後、慶長16年(1611)京都に入り、了恵上人が開いた念仏道場の縁地(悟真寺)に草庵を建立し、「朝陽山 栴檀王院 無上法林寺」と名づけました。檀王法林寺において上人は、浄土念仏の教化につとめ著述に没頭された一方で、寺域を拡張し寺院の基盤を固められました。

そして元和5年(1619)、住持すること9年にして上人は、「法林寺什物帖」を弟子の團王(だんのう)上人に書き残し、寺を譲って東山五条坂に袋中庵を創建し移り住まわれました。

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「だんのうさん」の由来

画像 團王上人像
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そのあとを継いだ團王上人は寺院興隆に尽力され、恵心僧都作と伝えられる阿弥陀如来立像を本尊(現在の御本尊)として阿弥陀堂(本堂)を建立し、寺域も現在の広さにまで拡大させていきました。

團王上人は人徳も厚く町衆信者との交流を深められましたので、当寺は庶民から「だんのうさん」と親しみを込めて呼ばれるようになったのが、「だんのう」という名称の由来です

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檀王法林寺の中興

画像 来迎柱
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十二世住職に就いた良妙(りょうみょう)上人は元文3年(1738)の本堂再建に着手されました。

この大修理は諸堂全般にわたる大規模なもので、本堂は、屋根を瓦葺き、扉を唐戸にし、内陣には須弥檀を拡張し、来迎柱を建て堂内外に彫刻をほどこすなど、荘厳を極めたもので、現在にその姿を伝えています。

画像 菊御紋
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この良妙上人の代に、霊元帝の養母であった東福門院の御位牌がまつられるようになり菩提所となりました。

この東福門院は徳川二代将軍秀忠の娘(五女和子)であったので、この頃より当山と皇室や徳川家との関係が一層深まり、本堂再建の際には寺内に皇室の菊御紋、徳川家の三葉葵紋の調度が許されるようになったと伝えられています。

画像 勅額
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また、当山にまつられている主夜神尊の信仰は、霊元帝をはじめ皇室による保護をうけて発展してきました。

良妙上人が主夜神堂を建立した際には、有栖川職仁親王筆の「婆珊婆演底神最初示現之処」の勅額がかかげられ、また音仁親王は朱塗りの開運門を寄進されました。

この朱塗りの開運門は現在の川端門として残されています。この主夜神信仰の人気をうけて、宝暦年間(1750年頃)は江戸時代の最盛を極めたと言われています。

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